物事はなんでもわかりやすいほうがいいけど、これを甘く見る人が問題を発生させて深刻化させるという話。
知識の習得、スキルの習得、会話、報連相、どんな目的でも、そのプロセスはわかりやすいほうがいい。わかりやすさ正義。
例外があるとすれば「わかりにくさ」を遊ぶ時。
ユーモア、メタファー、アイロニーなど、本来の心とは別のことを言ったり行動したりして、そこにいる人たちの共通認識の中でその解離(わかりにくさ)を共有して楽しむ───つまり落語やブラックジョーク、風刺のお笑い、エンタメ。
これらの場合は、わかりやすいと野暮だし興冷めするし、角が立つ場合もある。唯一の例外パターン。
意図的なわかりにくさを楽しみ、意図的なわかりやすさを便利に使うのが、最適解。
だけど、このわかりやすさとわかりにくさのどちらにも属さ(せ)ない人がいる。
わかりやすさを使えず、わかりにくさでも遊べない人。
たとえば一般論で言うところの「男らしさ・女らしさ」。ホルモンバランスが明確に生理学的に偏るから、どうしてもこの「らしさ」は身体的・性格的特徴として多くの人に如実に出てしまう。
それが統計的に「らしさ」と呼ばれている。
決断力のあるたくましい人を「男らしい」
温厚でしなやかな人を「女らしい」
競争で勝つこととエロだけ考える人を「男らしい」
話を合わせることと映え最優先な人を「女らしい」
こういった「らしさ話」を「性差別」として聞き、傷ついたり怒ったりする人たちがいる。
あくまでらしさは「普遍的な生態系」であって、良いも悪いもない。
たとえば課題として「子孫をなるべく繁栄させる」を設定した時に、仕組みとして一夫一妻制ではなく多夫多妻制のほうが最適解なのは100%決まっているけど、「女らしい人」はたいてい異を唱える。
相思相愛の恋愛結婚をして、経済的・精神的にどっぷり浸れる人生を望むシンデレラシンドロームの人が少なくないし、生物学的に男は多くの種を無責任に残し、女は優秀な種を1つ選び出産は命懸けだから。
課題に対して生態が最適解じゃないことを風刺として皮肉る場合、わかりにくさの極地だから、単純に我が身に置き換えて一大事になる人はわかりにくさを楽しむ余裕はない。
こういう、一般論や統計の話をわざわざ自分事にすぐ置き換えて自ら傷つきに行って怒りに行く人は、わかりやすさを使いこなすこともできない。
たとえば、不二一元論では、存在=価値と説く。
健康、金、愛、美貌、権力、夢、これらのすべてを持っていたとしても、存在=価値という土台がなければどれも真の効力を発揮することはない。なぜならどこまでいってもこれらはただの付加価値だから。
存在価値と付加価値を同列に語ることそのものが矛盾───この単純でもっともわかりやすく、意味として最重要レベルなことを、わかりにくさで遊べない人ほど甘く見る。
こともあろうに、わかりやすさを甘く見る人は、自分でどんどんわかりにくくしていく。
- 選択肢を増やし
- 情報を増やし
- 視点を増やし
ドツボにはまって迷って困って、人を頼る。
そこでわかりやすい答えを提示されたとしても、重要性に気付こうとしないから理解もせず、情報と人間のせいにする。
あらゆるわかりにくさに傷つき、怒り、わかりやすさをわかりにくくし、また同じことを繰り返す。
なぜこんな悲惨なことになるのかというと、人を愛してないから。
歴史も科学も哲学も、商品もサービスも、芸術もエンタメも、人間社会に存在するものはすべて人間が積み上げてるもの。
根底に人間の価値がある。全員がつながってる。(六次の隔たり)
その神秘と壮大さと、希望と、尊大さを大大大前提に据えていないと、あらゆるものの価値判断を見誤る。
存在価値と付加価値、同列に考えてしまうことで最優先事項を見失い、わかりにくさで楽しめず、わかりやすさを使えない人が爆誕してしまう。
因果をたどれば、自尊感情が剥奪されて適切な教養を与えてもらえなかった環境だったがゆえに陥る事態だと思うと、特に本人たちに責任はないというところが輪をかけて残酷。
2025年以降、価値を見誤ってる人々がどんどん後継を作って、わかりにくさで楽しめずわかりやすさを使えない人がどんどん増えていく社会を思うと、むしろ気付いてる人がどう生きてくのかという最適解がカンタンに鋭く定まるから、幸福格差は大気圏とマントル以上に開いていく。
人はそのまま常に限界で全力で精一杯で、毎秒が結果で、大きく変われる人など約0.01%。(挑戦する人1%、継続する人はさらにその1%だから)
これを踏まえると、正義感・義務感・強迫感・焦燥感・老婆心・反骨心・対抗心で人に関わることは、ただひたすら愚かで非生産的で徒労。
内発動機・おすそわけ利他・存在を味わう、人間の最適解はこれだけ。
わかりやすさを使おう、わかりにくさを楽しもう。