よく目にするけど名前を知らないものの価値は変わらず機能を果たし続ける

先日、キッチンの下の扉に引っかけるカゴを探してた。計量スプーンやピーラーを入れておくための、細長い箸入れみたいなサイズで、扉にかけるためのフックがついてるようなやつ。名前は知らない。

Amazonや楽天で注文するために商品を探すわけだけど、

「箸入れ フック」
「キッチン 収納 カゴ」

とかいろいろ調べるも、一向にお目当てのものが出てこない。数分くらいさまよってると「カトラリーボックス」という聞き慣れないワードが目に飛び込んできた。

カトラリーとは、もともとスプーンやフォークを入れておく用の容れ物のことらしい。つまり日本における箸入れのことに違いない。

「カトラリー 引っ掛け」

と検索したらビンゴ。お目当ての商品が一覧に表示された。

以前にも同じようなことがあった。調味料をいくつも入れて、スライド式の蓋がついててホコリがかぶらないようにする容器。ほしいけど「キャニスター」という名前を知らなくて、四苦八苦した。

日常的に目にしてるものでも名前を知らないものがけっこうある。名前は知らないけど、日々、それらは機能を果たしてる。

名付けることは不便益と利便害に通じてて、そのものの機能や価値を知ろうとする時に名前は邪魔にさえなる。(使って始めてわかるのに名前で知った気になるから)

ズームアウトして考えると、勉強ってものは全般そうで、現実をよりよく変える能力が知恵なんだけど、知識を得ることが先行してしまって目的と手段がテレコになって、知恵を身につけることを後回しにしてしまう。

これはヒトの賢さの代償でもあって、言語があることによって頭だけで理解しようとしてしまう利便害になってしまってる。

そう考えると、ヒトにも名前なんて要らないんじゃないかとさえ思う。

名前があるから知った気になって、実際に向き合おうとしなくなる。
名前があるから遠くから呼んで、実際に近くまでいって知らせなくなる。
名前があるから手紙を書けて、実際に会いに行かなくなる。

言語化すればするほど、実態との距離が生まれてしまうのはなぜか。おそらく多くの人は「言語化=具体化」だと勘違いをしてる。言語はどこまでいっても抽象の域を出ないのに、それを具体化だと勘違いしてる。

「りんご」という名称と、丸い・赤い・甘い・固い・酸っぱい・皮・実・種・果汁などの単語で、その物体を表した気になってるけど、「盲目で味覚障害でりんごを知らない人」には何も伝わらない。

見て、触って、味わって、匂いを嗅いで───五感で体感しない限り具体なんてものはなくて、言語もルッキズムで、言語化で具体化した気になってるヒトというのは、本当に利便害に毒されて生き物としての悦びを失ってしまってるんじゃないか。

本当は、圧倒的な具体を求めて得るために、言語化を数ある手段の一つとして使うのが最適解なのに、これもやっぱり目的と手段がテレコになってしまってるケースが多すぎる。

カトラリーとキャニスターが、どう生きるかを僕に問うてきた、そんな出来事だった。

タイトルとURLをコピーしました